第18話   エビ撒き釣り   平成16年08月11日  

高価なエビのコマセ釣りを経験出来たのは、長い釣歴でたった一回である。当地ではエビのコマセ釣りが出来たのは殿様とお金持ちの釣師だけである。庄内では最近1号枡で1400500円と云う他の地方では考えられない価格となっている。故にこの釣り方は酒田では大名釣りと云った。淡水産のエビであっても、海中に入れてもしばらくは元気に泳ぐことが出来る。だから魚はエビを見つけたら、良い餌を発見したとばかりに食いつこうとする。するとエビは逃げる。最後には魚狂ったようになり、夢中で追いかけては食うようになる。大小の違いがあるものの、イサダ釣と非常に似ている。古くからエビ撒き釣りが、あったことから仙台から伝わってきたイサダ釣り(宮城ではエサダ釣と云っているらしい)がタナゴ釣りから黒鯛釣りに応用されて昭和40年代中ごろから地元に定着した。

家には、15〜20坪の多少横に長い大きな池がある。そんな大きな池に釣りの残りの蝦を放していた。高校の頃、水草を沢山買って来て金魚の為に増やそうとしたことがあった。そしてそんな事はすっかり忘れていた大学の二年(昭和37年)の頃、池の水草の中に大量の小蝦(ヌカエビ=その昔、当地では小エビをヌカに入れて販売していた)が住み着いている事を発見した。

釣りの定番の餌であるエビを春から販売する鶴岡と異なり、酒田では産卵の過ぎたエビを9月に入ってから沼干しをして販売するのが常である。釣り餌としてのエビは、昔から鶴岡と異なり少量販売でゴカイ、イトメ等他の餌より非常に高価であった。当時の価格で鶴岡の1.5倍以上はしたと思う。自分の若い頃の鶴岡でも、すでにエビ撒き釣りは非常に高価なものとなり、エビ撒き釣りは極く一部のお金持ちの釣り人に限られていた。昔は川や沼に沢山いたと云うが、自分が釣りを始めた頃は需要と供給の問題で毎年のように値段が上がっていた。だから鶴岡でならともかく、酒田ではそんな豪華な釣りをしている人はまったくと云って良いほど居なかった。そのような風習の違いは「鶴岡の大名釣り、酒田の貧乏釣り」と云う違いになる。

小さなバケツに半分くらいのエビを捕らえて、二間一尺(3.9m)の延べ竿を片手に、二つ年上の従兄弟と二人自転車に乗って南突堤の直線上にある旧灯台の右側の大きなトウフ石の先を目指した。このトウフ石の辺りは夕方から二間一尺(3.9m)から二間半(4.5m)の竹竿での夜釣りで二、三歳の黒鯛が良く釣れる釣り場である。また、多少波が出れば足元に尺二〜三寸の黒鯛がはいって来る場所でもあった。海底は女鹿石のゴロタ石が多く、二、三歳の黒鯛の格好の住処となっていた。

その当時はまだエビまき釣りなんてした事もないし、知らなかった。二人並んで陽も明るい頃から、エビを少量一掴みずつ竿先に撒いて見た。しかし、全然反応がない。従兄弟は多少関東で釣りの経験があったから、それが撒き餌釣りという事は知っていたようだ。

多少の流れがあるので板錘を最低限につけ、道糸を竿プラス一尋半とりその先にハリスをチチワ結びにして遠投して自然にエビが海底に沈むのを待つ。このエビはチョン掛けをすれば多少の流れがあっても、結構底へ底へと泳いで行ってくれる。陽が隠れて、二時間経過しても、小物ばかりで当たりが出ない。近くに黒鯛が居れば必ず釣るれる筈と従兄弟と話をしながら少量の撒き餌を欠かさず撒き続けた。

五時間も経過した十一時も過ぎた頃、急に当たりが出はじめた。それからと云うもの入れ食いとなり、二人であっという間に共に30枚を越えた。その頃には近くに居た釣り人が周りを取り囲んだ。エビでないから、そんなには釣れないが程々には釣れた。我々が三枚釣る内に一枚がやっとである。レギュラーサイズが八寸(24cm)で大きなもので9(27cm)あった。生まれて初めての大漁で従兄弟と二人楽しめた釣であった。12時を回った頃、餌がなくなりそれぞれ家に帰った。家で数えたところ47枚あった。

これが最初で最後のエビ撒き釣りである。あまりの大漁にびっくりするやら、怖さを感じた。釣りはたまにしか釣れないから面白いのであり、あまりにも釣れ過ぎても面白くない。釣れに釣れた安い庄内竿は、従兄弟と二人で翌日一日がかりで竿を矯めなければならなかった。

最近はエビ撒き釣りは高価すぎて無理である。そこで市販のコマセにオキアミ足して撒き餌を撒いているが、いくら撒いても魚が少なくなった事で中々寄っては来てくれない。下手なこともあって半日、一日撒きながら釣っても十枚がやっとの日もある。